取手聖徳陸上部35th トピック5『インターハイのリレーで3回入賞!』
小川 健二 2021.03.02
トピック5では、【インターハイのリレーで3回入賞!】について振り返りたいと思います。今回は長くなります。最後までお付き合いください。
私は、中学校から大学まで棒高跳を中心に競技を行ってきましたがスプリンターへの憧れがありました。教員になってからは、強い選手を作りたい一心で1年間は独学で指導しましたが、上手くいかず部員も初年度初めは20人くらい集まりましたが生徒のやる気を感じられず、『本気でやりたい者だけ残れ』と言ったら、選手6人・マネージャー1人の7人残りました。選手は、投てき2人、中長距離2人、ハードルをやりたいが1人、元吹奏楽部1人が選手です。私は、強い選手を作るには足が速くならなくてはならないと思っていたので、初年度から最重要強化種目としてリレーをあげて指導がはじまりました。4×100mRは、1年目秋の県南新人大会で6位になり県高校新人大会に出場できました。しかし、なかなか思うような指導結果が出なかったので、当時、野田市立第二中学校の顧問の野島先生に指導の方法を教えてもらいに行きました。実は野島先生とは以前から面識があり私が教員になった事を大変喜んでくれた先生でした。1年目の夏休みに選手勧誘で野田ニ中に訪問して『100m県チャンピオンの選手はどこに行くんですか?』と聞くと顔色が変わり、『この選手を勧誘に来たのか?指導実績もない、特待制度もたいしてない、よくわからない学校に送れというのか?』と言われて、私はそこまではっきりと言わなくてもいいじゃないかと頭がカッとしてしまい、その日はすぐに帰りました。そのあと近隣の中学校を勧誘に回りましたが、ほとんど相手にされませんでした。ある中学校では事前に約束して尋ねましたが『学年主任は忙しいので資料はそこに置いていってください』と言われる有様でした。これが現実でした。そして1年後(1987年)に野島先生を尋ねると大変優しく『今日は何しにきたんだ?』と聞かれ、『選手の指導法、育成法を教えてもらいたくて来ました。』と言うと『よく来たな。もう来ないかと思ったよ。』と笑いながら言い、事細かに教えてくださいました。特に短距離走やチーム作りについて教えてもらいました。この後、10年以上自宅にまで押しかけて伝授してもらいました。本当に感謝しております。
≪1991年リレー練習風景≫
指導結果は、2年目(1987年)県高校新人4×100mRで6位、5年目(1990年)県高校総体4×100mRに初優勝、その年の関東高校4×100mRで8位、そして8年目(1993年)にインターハイ初出場。その後インはーハイには、4×100mRは8回・4×400mRは1回出場し、4×100mRで2回・4×400mR で1回の計3回入賞しました。ちなみに1986年(S61)から2020年(R2)までに茨城県の女子チームがインターハイで入賞しているのは4回あります。1回は常磐女子(現在;常磐大学高校)高校が1991年(H3)に4×100mR で47秒59の県高校新記録で第5位入賞、そして本校が1994年(H6)に4×100mR で本校初の第7位、1997年(H9)に4×100mR で第6位、2001年(H13)に4×400mR で第4位と2校で4回です。
本校のインターハイ入賞の1回目は、リレー出場でインターハイ2回目の富山インターハイでした。県大会優勝、関東高校を3位で通過し本番のインターハイを迎えました。県・関東と1走を丸茂(高2;槍投専門;この年、国体出場)が走りましたが、6月下旬から1年の高野千尋が調子を上げてきていたので、私はインターハイに使いたいと考えていました。2走から4走は3年が担当していましたが、大会10日くらい前から3人に相談しましたが、3人とも答えは『NO』でした。しかし、どうしても使いたかったのでインターハイ会場に到着する日の午後に決定戦を行うことにしました。丸茂と高野の2人を200mのスタートから100mスタートラインまでの100mで決定戦を行いました。私とレギュラー3人で100mスタートライン(ゴール)の外側で見守りました。決定戦は高野が2mほど離してゴール。私は3人を見ると「高野で行きましょう。」とメンバーが決まりました。しかし、このメンバーで一度もレースを走っていません。2走の金子は200mにエントリーしていたので何本も練習はできないので本数は少なくし集中して行いました。予選は無事通過し、準決勝はプラスか着取りかは覚えていませんが決勝にはギリギリ残ったと記憶しています。準決勝のタイムは最高タイムを0秒31短縮して、47秒78で走り聖徳新でした。決勝は、私も選手も緊張していましたが、1走の高野は楽しそうに見えました。その高野がスタートでフライングをしました。高野はその時自分がフライングしことに気づいていなかったらしく審判に注意を受けあて、自分のことを指さして「私ですか?」と言わんばかりの様子でした。もう終わったなと思いました。しかし、ジャストにスタートしていきました。途中1チームがバトンミスをしましたが僅差のビリのゴールでした。バトンミスのチームはバトンが渡らず失格でしたので7位でした。ホッとしながらも4×100mRの怖さを知りました。
≪写真;1994年4×100mR 第7位;3-4走≫
≪記念撮影≫
2回目の入賞は、それから3年後の1997年でした。この年は県大会で100m4位・6位、200m3位・4位・5位、400m優勝でし、5人で6種目関東大会でした。県大会のリレーは、1人だけが正メンバーで3人は補欠で走り49秒99で優勝。みんなに活躍の場を作りました。関東大会からは2走から4走は正メンバーに固定し、1走は調子の良い者を使うと考えてインターハイの調整していきました。関東大会は予選では47秒99で走り、決勝は4位で通過。インターハイは、予選で夕立になり、マーク用にテープが飛んでしまい、本校の組で中断になってしまいました。しかし、本校は雨対策をしていたので、テープは飛びませんでした。以前、全国のトップチームがホチキスの持っていてテープを止めていたのを見てからは、選手に必ず持参させては使用していたので本校の生徒は焦らずスタートを待っていました。結果、本校のホチキスを使ってレースが再開されました。ですから予選は全体の3番で通過しました。しかし、準決勝・決勝は晴天でしたので順当の6位に入賞しました。
≪写真;表彰≫
3回目は、4×400mRで2001年(H13)に4位に入賞しました。この年から女子種目に4×400mRを含む5種目が追加されました。この5種目は、勝てば初代チャンピオンになる年です。実は狙っていました。前年度の日本ジュニアで5位。3年が1人で3人が2年です。3人のうち1人は関東高校100m2位の植村愛、もう1人は関東高校400m6位の小山真理、3人目は100m〜400mをこなす吉宮梨恵でした。その年の9月末日に長距離担当の杉森春男先生が退職し実業団へ行ってしまい、長距離と一緒に指導しました。10月から大橋忠和先生を迎えて冬季練習に励みました。2001年シーズンは、5月上旬の水戸国際陸上4×100mRでジャパンBチームをアンカーの植村が抜き去り2位でゴール。タイムも47秒38の県新記録。そして5月中旬の県高校総体では100m;1位・4位、200m;1位・3位・5位、400m;1位・2位・6位と5人で8種目に入賞、リレー2種目も優勝。その後、県リレー選手権では4×200mRとスウェーデンリレー(100m+200m+300m+400m)で日本高校新・県新記録を樹立と思い描いた様な仕上がりでした。しかし、6月上旬にエースの植村が練習中に痛みを訴え、疲労骨折が判明し関東高校を欠場。関東は200mで小山が8位、400mで小山が3位・吉宮が6位、4×400mはエースの植村が欠場しながらも3分52秒26の県新記録で2位に入賞しました。インターハイは、さらに1走を走った石川裕子(1年)が故障で欠場となり、チーム6番手で400mベストが62秒44の鶴田由樹美(1年)が走るしかなくなりました。会場は熊本県で大変熱く私は生まれて初めて熱中症にかかってしまうほど厳しい環境でした。私は、開会式直後に体調がおかしくなり、激しい頭痛・悪寒・吐き気に襲われました。選手は大橋先生に任せて体調を整えました。大会には学校から湯澤先生(現校長)が応援に来てくださいました。大会初日は、400mに小山が出場し調子が良く予選で56秒33の自己新で走りました。しかし準決勝ではうまく走れず決勝には進めず、チームの雰囲気はよくありませんでした。また宿舎から大会会場までは車で1時間以上の場所でした。選手は走りのリズムは良いのですが、モチベーションが上がらない様子のまま前日練習を終えました。一か八かで前日ミーティングは生徒たちが『勝ちたい』と思うまで続けました。2、3時間は行ったと思います。予選と準決勝は、オーダーは大橋先生と相談した結果、大橋先生案でした。1走;鶴田(62”44;7月)、2走;吉宮(57“47)、3走;豊野(58“86;9月)、4走;小山(56”33)です。予選は、1走で誰が見てのビリでした。2走の吉宮は前半から激走して集団に追いつきラップも55秒の前半で走り、3走の豊野は2、3番手でアンカーの小山へ繋ぎ、小山がトップでゴールしました。タイムは3分50秒98の県新記録。準決勝は次の日でオーダーも同じ走順では臨みました。1走は予選以上に離れてのビリで2走の吉宮へ、予選と同じように前半から激走して集団に追いつき3走の豊野に渡し、豊野は、2、3番に上がりアンカー小山がトップでゴールしました。決勝は、その日の3時間後ぐらいでした。4人は疲れ切っていましたが、この時点で私は走順を変更することを決断しました。ここからが本番だと思いました。1走と3走の変更です。しかし、そのことを告げると3走の豊野がビックリしていて顔を伏せてフリーズしてしまいました。決勝前までによく話をしてレースに臨ませました。レース直前に付き添いに回ったエースの植村と他2人はバックスタンドの最上段からスタジアムに響くほどの大きな声で応援をしてくれました。レースは、1走の豊野はいい走りをして3~4番目で2走の吉宮にバトンを繋ぎ、吉宮は2位まで上がりました。いよいよ3走の鶴田です。3位以下のチームは聖徳がこの位置にいるというのが予想外だったのか100mを過ぎても2位で誰も抜こうとしません。200mを走ったあたりでやっと気づいたのか抜き始めました。しかし、このレースの鶴田は違いました。ラップも1走の時は62秒くらいでしたが59秒で走り、そのまま集団に着いて行き4位で4走の小山へ。小山は200m付近で3位に上がりラスト100m付近で外側からこの大会100m・200m優勝の藤巻選手(新栄高校)に追い抜かれ4位になり、そのままゴールしました。私は大橋先生と共にゴール付近に走りました。その時、頭の中で麻倉未稀の「ヒーロー」が流れていました(笑笑)。タイムも3分49秒23の県新記録でした。インターハイ中に2回の県新記録樹立です。エースの植村と関東大会1走の石川が離脱してのインターハイでしたが、4位という素晴らしい結果を出し、頑張ってくれました。走った4人はもちろん補欠・付き添いに回った者たちのチームワークの成果だと思います。その時のゴール後に喜んで涙している写真が教科書会社のワンカットに乗りました。でも、発刊後に連絡は来ました(笑笑)。
最後までご覧いただきありがとうございました。
≪4×200mRとスウェーデンリレー;日本高校最高記録樹立≫
≪4×400mR 第4位 1走 豊野由希子≫
≪4×400mR 第4位 2走 吉宮 梨恵≫
≪4×400mR 第4位 3走 鶴田由樹美≫
≪4×400mR 第4位 4走 小山 真理≫
≪記念撮影≫
≪教科書に写真採用≫