卓788 ほめられたりなさ
水越 卓治 2024.11.01
終戦から79年と少々が過ぎた。
一般市民の運命が国家間の対立によって翻弄された時代の記憶
は、今成長過程にある生徒たちに向けて、
生々しさを帯びた再生によって語り継がれるべきではあるが、
それは徐々に困難となっている。
国家間の衝突から回避される安全が保障され、
戦死者が出なくなった日常の中で、個々の安全保障までもが、
急速な経済復興を背景に概ね実現できるような社会となり、
私たちが数十年の生涯をいかに謳歌し、開拓してゆくかを、
国、自治体、医療や教育などの諸機関、そして家庭などの
社会単位を舞台に、自由に模索できるようになってはいる。
とはいえ、数百万人もの息の根を止めた時代と同等な悲劇は、
他国・他地域で今も続く中、平和ボケした当国国民の中には、
日常生活における自身の保障を脅かす存在への抗いに向ける、
自身の対抗を充て込むような歩み方を選ぶ人も少なくない。
戦後の「団塊の世代」から今の「少子化」に至るまでの時期、
今日の日本よりも大きい人数規模の教育が進められた中で、
相互に語り、聞き、論じ、認め合う、または平行線といった
活動を通じて、だれもが個々のアイデンティティを認め合える
度合いというものは、果たして今より、
高かったのか、低かったのか。
仮に低かったとした場合、ほめられたりない成長過程を経た
人物・群像も、じつのところ、相当数いるのではないのか。
幼少時代から社会人としてデビューするまでの成長期間、
紆余曲折を経験し、適切な選択肢を見極める力に磨きをかけ、
齢の垂直水平を問わず、賞賛を得たり、批判を受けたり
するなどして、人は厚みと温かみと精緻さを帯びてゆく。
この時代、こうしたプロセスに十分に浸ることができない
ことは、育て上げたい子に対する大いなる損失である。
ほめられる、または、それはどうなんだろうと声かけられる、
などの親身な接触に養われぬまま成長期間を経ることにより、
人は一般社会で「そんな点に憤りを感じてしまうのですか」と
問われかねない種類の判断基準が形成されてはいまいか。
それは、日常の言動・行動、自動車等の運転マナー、
時間の認識、空間の認識、ものの食べ型や歩き方に見る姿勢、
表情・顔立ちなどの、さまざまなアウトプットに、
形状となって顕れる。
元凶とまでは思わないのだが、
「ほめられたりなさ」が誰からも悟られてしまうような歩み方
に今の生徒を導くことのないよう、小職自身は心がけている。
■
p.s.
この時季にしては珍しく。
地理部屋から富士山がぼんやりと視えました。
( 2024/10/31 9:25 )
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以上になります。